ハナちゃんの足跡

~最愛の友だちを記念して~


さようなら、ハナちゃん ハナちゃんの在りし日の姿 小太郎と小次郎 過去の日誌
ハナちゃん 小太郎 小次郎

2002年7月19日(金)

梅雨はまだ明けていないようだが、2つの台風を含む雨の力もあって、ハナちゃんの事故現場に残っていた「痕跡」は、もう見分けることができなくなってしまった。道に面していた空き地にも、工事用のバラックが建ち、遠くない将来、あの日の風景はこの場所から永久に消え去るだろう。

ハナちゃんの事故現場からすぐ右に入る脇道があるのだが、その道の出口に当たる部分に人間の葬儀場が建築中で、「建設反対」のポスターがたくさん貼ってある。そんなポスターを眺めていると、人間の地域エゴイズムを感じてうんざりするので、脇道に入ることは、ここ最近はほとんどなかった。2、3週間前、久しぶりに脇道へ入ってみると、自転車駐輪場の前に数匹の猫たちがいた。1匹は子猫だった。親子だろうか。それなりの大きさに成長しているので、ハナちゃんが死んでしまうよりも前に、生まれたのだろう。もしかすると、ハナちゃんはこの猫たちに興味を持って、ふだんはあまり訪れない場所に出かけてきたのかもしれない。新顔の子猫に挨拶をしに行ったのかもしれないし、縄張りの侵害を警戒して偵察に行ったのかもしれない。臆病なハナちゃんのことだから、親猫に威嚇されたら弾丸のように飛び出してしまうことだろう。しかし、仮に想像のとおりだったとしても、それで親子の猫たちがハナちゃんの事故の原因を作ったわけではない。

だいたい、ハナちゃんの事故現場は、幹線道路ではなく、本来なら車の速度も制限されている。だが、すぐ近くに国道との交差点あるので、黄信号のときにとんでもないスピードを出して突っ込んで行く車を、時折見かける。ハナちゃんは、偶然、そんな愚かな運転手と遭遇してしまったのだろう。

猫を長生きさせるには、家という檻の中で飼うことぐらいしか、方法はないのかもしれない。それに疑問を感じることは、自動車社会の恩恵に浴している「人間」である自分自身への自己欺瞞かもしれないが、「葬儀場反対」と同じエゴイズムを見逃すことはできない。もちろん、ペットという存在形態事態が、人類のエゴイズムの産物なのだろうが。猫とともに暮らすこと、そしてハナちゃんの想い出とともに暮らすことは、自己矛盾との際限のない格闘という側面も持っている。

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