ハナちゃんの足跡

~最愛の友だちを記念して~


さようなら、ハナちゃん ハナちゃんの在りし日の姿 小太郎と小次郎 過去の日誌
ハナちゃん 小太郎 小次郎

2002年9月17日(火)

今日はうんざりするニュースばかりをテレビが放映している。これはいったい何なんだろう。北朝鮮による拉致被害者の件だ。

北朝鮮のスターリニスト指導者金正日は、小泉首相との会談で拉致疑惑を現実のものとして認め、謝罪した。その中で何人が生きていて何人が死んでいようと、それがどうしたというのだ。普段、こうした人間の「情緒」に訴えることは、非現実的、非政治的として退けられる。唯一の被爆国として原子力発電に反対すると、それは情緒的反発だとされる。成田空港に反対する農民が土地にしがみつくと、公共の利益の下にそうした情緒は否定される。そう、こうした情緒を否定してきた連中が、この拉致問題に関してだけは情緒に訴える。

金正日は、この問題に対して事実を認め、謝罪した。事件発生から、何年後のことだろうか? 一方で、植民地支配下の朝鮮から強制労働のために数多くの人間を「拉致」した日本が、そのことを謝罪するのに50年以上をかけてしまった。「誠意」が人数や年数で数えられるなら、どうみても日本の分が悪い。しかも日本は、戦後に誕生した朝鮮民主主義人民共和国とは異なり、戦前との連続性を天皇制を維持していることや、靖国神社で体現している。

実際のところ、「朝鮮人なんかに謝るのが嫌だ」という気持ちが、拉致問題を政治の表舞台に押し上げた要因ではないのだろうか。そうだとしたら、恥ずかしいことだ。そんな国民的「気分」を利用して、日朝国交正常化交渉を有利に進めようという政治家も、それに利用される拉致被害者家族も、なんて情けない存在だろう。僕は、情緒的にそう考える。

政治問題に祭り上げられる事件は、幸福なのか不幸なのか。ハナちゃんを轢き殺した車を運転していたのが、偶然近くを通った北朝鮮の工作員だろうが、どこかの外国人だろうが、ただの日本人だろうが、“たかが”猫を殺したぐらいでは、いずれにしても事件にはならない。人の命より、猫の命は軽いのだろうか。そうだとしても、僕は我慢している。

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